近畿測地ができるまで編


わたくし「塩見日出勝」は昭和18年生まれ、日出勝の日出は日の出の時刻に生まれたからその名が付いたと最近まで思っていた。

父親が他界した数年後、母親からお前の名前は世界大戦の真っ只中、日本を出て勝てと言う意味で父親が名付けたと聞かされ、侵略戦争の何者でもない謂れつきだとびっくりした。
私だけでなく、この年代には戦争に勝利を託し勝、勝彦、勝美、勝巳、勝利、勝寿といった名が多くある。

 戦後素晴らしい経済成長を遂げた日本は世界に貢献する立場にあり、その中で私もほんの少しでも世界に役にたつ人間に成れないものかと肝に銘じながら、この名が気に入っている。

二歳の時終戦、食糧難の時代に栄養失調すれすれで育ったものの、現在まで健康にすごしている。

 小学校時代は、近所のなかまと日が暮れるまで大いに遊び、牛や畑など大いに家事の手伝いをした。
今となれば日本がとても幸せな時代ではなかったかと思う。

そうしたかけがえのない同級生の付き合いが今日にいたっても続き、人生に彩りを与えてくれている。



さて、大きくなるにつれ8人兄妹で大学へ行く家庭の経済状況でもないのに、大学生に憧れ、こっそり受験して合格するものの、もちろん大反対にあい挫折。特別成績が良かった訳でもないが向学心はあったように記憶している。

 そんな折、京都府立福知山職業訓練校測量科(現・福知山高等技術専門校測量科)で学ぶチャンスが得られた(昭和37年)。
 一年間ではあったが充実し、そこでの学びは大きかった。

 測量技術との出会い、同窓生との出会いはその後の人生の大きな基礎となった。
 特に若い時に業界への興味を持たせてくれたのが、一番大きな収穫だったと思う。

 訓練校を土台に広島の航空写真測量会社に就職し、北海道の稚内から鹿児島の枕崎まで年中出張しながら全国を生活の場として過ごすことになる。













私が測量業界に入った当時、5万分の1図の作成は平板測量から写真測量へと変わった時代であった。
 腕一本で地図を作り上げてきた先輩と、これからは写真測量だと主張する先輩がいた。

海道の稚内〜鹿児島枕崎迄年中全国を生活の場とし、安宿で酒を酌み交わしながら双方の技術論争を常に拝聴しつつ私は少しずつ技術と酒をこの時代に覚えていった。 

 鳥取県の大山の周辺に「塩見」と私の姓を命名した四等三角点。
 北海道の稚内での一等水準点設置、四国の大歩危・小歩危地区で猟犬のごとく駆けずり廻って標定点測量をしたことが特に思い出深い。

 こうした4年の歳月は私を測量から離れられなくしてしまった。

 日本をくまなく廻って満足感に気を良くしたのか、学んだ測量技術と若い自分が何か役に立つことがないかと当時発足したばかりの「青年海外協力隊」のボランティア活動に参加してアフリカの開発途上国造りに挑戦することにした。











昭和40年頃の日本は高度成長初期で先進国の仲間入りを果たし、当時は南北問題と言っていたように記憶しているが、開発途上国への援助をスタートする時期でもあった

私はその当時発足したばかりの国の援助事業「青年海外協力隊」の隊員に応募した。
自分が途上国の国土開発に役に立てたり教えたり出来る者ではないと知りつつも「君の若い力が海外で役に立つ」という見出しのパンフレットを見た時から協力隊参加の夢は日増しに高まった。

今から思うと、何故そんなにまで私の気持ちを高ぶらせたのか解らないが、日本国中を駆け回り一通りの測量作業体験が出来たおごりか、体力的な自信があった位の理由だったと回想する。
 

 初めて乗れる飛行機(しかも無料)と、海外での生活を想像するだけで海外ボランティア参加の動機を十分に満たしていた。
 途上国とはいえ日本語以外の言葉で指導に携わる事や食事、病気等の不安は完全に打ち消されていた。

夢は抱いても受験して合格するという難壁、山の中を猟犬の如く駈けずり廻り酒やタバコを覚えていた私に今さら英語受験、一見絶望的にも思えた。

 年中通しての旅館生活。仕事を終えクタクタでも残業を終え夜中の12時や1時頃まで布団にもぐり込んでの猛勉強。

 言いようのない苦しみの中にも夢に立ち向かうという行動は、酒や睡眠時間を削り勉強の時間に変えることが出来る、素晴らしいものだと思った。


昭和42年、東京で青年海外協力隊入隊のための学科・面接・身体検査を受験した。

 外国語の手ごたえは全くなかったが、12月の年の瀬、指導業種「測量」、派遣国「ケニヤ」で合格通知を受け取る。

 年末休暇と同時に測量業務を叩き込まれた会社を退職、帰郷し、初めて両親に「これから2年間アフリカのケニヤに行く」と報告しびっくりさせる。
(その当時はアフリカに行けば食べられてしまうというデマの影響で心配をする人も多かった)

 予想以上の親・兄弟・親戚の反対罵声も数日間の辛抱と思い、ただ我慢と心に念じていた。


一週間後の15日には上京し、派遣前訓練が始まった。

軍隊様式の訓練というのだろうか?特訓は厳しかったがその分、想い出深い期間となった。

 この訓練はこれから2年間、日本人たった一人で生活する心構え・任地国の文化・歴史・国語・風土病等の知識を教わりながらの団体生活であった。

 東大、早大、の英文科卒者も私のようなボトム的な者もいるが、同一なのは若さと海外生活への目標。スペイン語、フランス語、ヒンドゥー語、ラオス語、スワヒリ語、英語等それぞれ任地国ごとに別れての訓練を受ける。

早朝から深夜までのカリキュラムは起床点呼から始まり、早朝マラソン、朝食後すぐ語学訓練。

この時生まれて初めてもう少し勉強の時間が欲しいと思い、時間の大切さも改めて知ったと思う。

同期隊員には日本に復帰前の沖縄からパスポートを持った若者も含め、全国から個性の強い者ばかりが集まった。

厳しさの中にも実に充実した日々、生涯忘れることのできない人々との出会いがあり、今でも目標を共にした仲間は同期会として続いている。

協力隊で知り合った仲間は何物にも変えがたい財産となっている。










私がケニア共和国に派遣された1968年は1895年から続いたイギリス植民地(保護領)から独立し建国5年目で国自体が若さと希望に満ち溢れた年だったように思う。

「ケニア人によるケニア人の為の国づくり」を旗印に政治経済の部門で実権を握っていたイギリス人、商業部門を握っていたインド人を国外追放する気運が高まり、また実行もされていた。 

しかし、現実は独立国家として独り立ちするにはあまりにも多くの問題が山積し、その一つとして理想とする強く美しい国づくりを推進させるためには、国内に指導者や技術者が不足していたため、やはり外国の力に頼らざるを得ないという問題があった。

このような背景のもとに「国づくり」という言葉にふさわしい農業用道路、未開発地域の道路、自然動物園内の観光道路等の測量技術指導の任命をうけ、ケニアでの生活がはじまる。


 私の専門指導技術は「測量」で、配属先は「公共事業省道路局」、ケニア政府がたてた5カ年プランに沿った新設道路計画の地図作成と路線測量が主な指導業務になった。

 

 ケニアはアフリカの赤道直下にあり、典型的なサバンナ気候で地平線には大草原が広がり、その草原には無数の動物が生育している。


 そのような大自然の中で、誇り高いマサイ族の集落で生活をすることも、ゾウやライオン等の猛獣に注意を払いながらの測量作業をおこなっていた。


 当時のケニアはイギリスから独立したばかりの若い国で、東アフリカの公用語である「スワヒリ語」は日本語の辞書などあるはずもなく、現場は奥地を転々とするという測量という仕事の特性から、部族語しか通用しない地域に滞在することも多くあり、着任したての私の会話は言葉ではなく、絵で説明したりパントマイムのような身振り手振りがコミュニケーションツールだった。


 ただ、言葉よりもっと大変なのは食事の問題で、言葉は他人と話さなくてもすむものの、食事なしでは生きていけない。
まさしく命がけでの言語習得で、今思うと信じられないような速さでスワヒリ語をマスターした。後日談になるが、15年以上たってからケニアをおとづれた時、まるでいつも使ってるように、無意識にスワヒリ語を話すことができた。全く使うことがなくなった今でもスワヒリ語に愛着を感じている。


 私には「旅行者ではなく技術指導者として2年間の使命を達成する」という任務があり、開発途上国の技術援助に汗水を惜しみなく流した。マラリアなどの命を奪うこともあるような熱帯特有の病気もあり、
恵まれた体を持つと自負していた私でも健康には十分注意した。しかし、何度か意識を失うような高熱に悩まされたが。


 アフリカの生活環境の珍しさも通り過ぎたころになると無性に日本食が恋しくなり、味噌汁、寿司、漬物と思い浮かべ、遠き異国の地に立っていること、自分は日本人なんだと強く意識したものだった。


 しかし、さまざまな苦難があったものの仕事のやり甲斐は何にも代え難く、さらに楽しく感動することの連続で、アフリカという大陸にどっぷりと魅了されていった。

 

      

測量作業中にこのような大型動物と遭遇する事も珍しくありませんでした